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花と綺羅玻璃:第1部 結晶遣いと砦の都

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第1話 結晶遣い 1

 何故、力の弱いものを足蹴にするのか。
 何故、足の遅いものを嘲り置き去るのか。
 何故、言葉の拙いものを無能とみなすのか。
 何故、財のないものからさらに搾取するのか。
 何か足りないのか。何が足りないのか。それが充分にあれば分け合うことを知るのか。
 ならば満たすためのものをここに創ろう。その嘆きが穏やかな微笑みへと変わるように。

   *   *   *

 耳を澄ませばしゅおしゅおと水の流れる音がする。その姿は齢を重ねた樹木のようであり、そそり立つ岩のようでもある。しかしその淡く赤紫色がかって透き通った表面を透かして向こうの景色が見えることによって、それが木でも岩でもないことが明らかになっている。
 この結晶でできた樹は地中深くからリクィルと呼ばれる液化魔力を吸い上げ、それを養分として輝いている。ここ塞都さいとでは樹からリクィルを採取してパイプラインで各区画に送り、それを生活のための燃料としているのだった。ランプもかまども天井の換気用ファンも全てこのリクィルのおかげで使うことができている。
 ヤイバシラ。またの名を結晶樹ともいうそれはこの街、国、そしておそらくは大陸全土で人が生活するためのエネルギー供給を一手に引き受ける巨大な魔法遺物だ。遺物というからには随分と古くから存在しているのだろうが、それがいつのことなのかは誰も知らない。ただ真っ直ぐに天を目指して伸びるその威容と、現実にリクィルというエネルギーを生成し続ける機能がヤイバシラを一種の信仰の対象にしていた。
 ヤイバシラの周囲には10人前後の人影が見える。年齢は総じて若く、服装は様々だがほつれや汚れのないそれなりに上等なものをまとっている点では共通している。その中にひとり、花のような星の光のような模様を浮かせた赤紫色のケープをまとった男がいて、その場にいる全員の様子に目を配っていた。彼がこのツアーを引率していることは明らかだ。
 ツアーといっても観光ではなく職場見学の一環である。今ここに来ているのはこの塞都の役人になるために集まった者たちで、先日行われた一次試験に合格して本日この後に二次試験を控えている。この見学が試験にどう影響するかは知らされていないものの皆がそれぞれに真剣な表情で辺りを観察しているのはそのためだった。
 中でも一際若く、そして一際きょろきょろと周りの様子を見回している青年がいる。長い髪は赤ワインの紅色で、真っ直ぐなそれを左耳の上で束ねたものをしきりに揺らす。映る全てが珍しいというようにくるくると動く瞳は上等なアメジストに似ていた。若いというよりもむしろやや幼い印象さえ受ける挙動は少しばかり周囲から浮いていたが、彼自身はそれを特に気にすることもなく自分の興味の赴くままに辺りを見続けているのだった。
 その彼が動かし続けていた目をとある一点で止めた。
「……誰だろう」
 ぽつり、と周りに聞こえない程度の大きさの声で彼は呟く。その視線の先にはヤイバシラがあり、その脇に佇むひとりの少女がいた。距離があるために細かい容姿までは分からないが、まだ役人登用試験を受けられる年齢に達していないことは明らかだろう。だから青年は首を傾げながらじっと少女を見つめる。
 試験参加者でない者がここにいるのはおかしい。ヤイバシラの周りには頑丈な壁があり、一般人はそこから少し突き出すようにして設けられた展望台までしか入れないようになっている。壁の内側に立ち入ることができるのは基本的に役人だけで、今回のような特別な事情があって役人の同行がある場合に限り例外が認められる。
 本来ならツアーを引率している役人に報告するべきところだが、青年はそうはしなかった。代わりに一団からそっと離れて少女の方へと足早に歩み寄る。少女が気付いて青年を見た。
「君、ここで何を」
 しているの。そう続けようとした青年の背後で突然光が弾けた。
「あぶなっ……」
 背中に押し寄せる衝撃波を感じて、青年は目の前の少女を庇うように地面を蹴る。驚きに見開かれた少女の青緑色の目が間近に迫って、それが小さく揺れるのを見た青年はふと微笑んで告げる。
「大丈夫」
 青年の声が耳に届いて、少女はさらに目を大きく丸くする。長い睫毛の白色が、その細い1本1本が青年の視界できらきらと輝いて見えた。
 崩れるぞ! と誰かが叫ぶ。それを皮切りに辺りは瞬く間に混乱の渦に呑み込まれていく。彼らの目の前では赤紫色に透き通った巨大な柱のような、あるいは大樹のような物体がぎしぎしと音を立てている。樹が軋む度にその表面から透明な欠片がぼろぼろと剥がれ落ちる。それは小指の先ほどの欠片ですら高値で取り引きされる高エネルギー物質であり、今は地面に衝突した瞬間に火花を散らして弾け飛ぶ小さな爆弾と化していた。青年は危険な欠片をばらまきながら揺れる樹を見上げてひとつ息をつく。
「なんで、こんな」
 青年の後ろでは少女がじっと身を硬くしている。おそらくは足が竦んで動けないのだろう。当たり前だ。青年だって、目の前で巨大な結晶樹が崩れていくのを見てとても平静ではいられない。ただあまりに突然すぎてうまく動揺することもできないだけだ。
 役人登用試験のために集まっていた若者の一団はいつしか散り散りになっていた。その中で赤紫色のケープを羽織った男がよく通る声で叫ぶ。
「リクィルが流出すれば街に被害が出る! 食い止めるぞ!」
「っ!」
 そうか、と青年はさらなる危険の可能性に気付く。ヤイバシラが崩れるということはその表面の結晶が剥がれ落ちるだけでなく、内部に流れるリクィルが放出されるということだ。人々の生活を支えるリクィルだが、その正体は高純度の液体魔力。すなわちとてつもない高エネルギーを放出する物質である。結晶の破片が地面に衝突すれば弾け飛ぶように、液体のリクィルが防壁を破って街に流れ出せばあちこちで爆発や建造物の融解が起きるだろう。それは絶対に防がなくてはならない。
 ヤイバシラはその点において非常に危険な物体でもある。だからこそこうして頑丈な壁に守られて、ごく限られた人間以外は近付かないようにされていたのだが。
「誰か、誰でもいい! リクィルの再結晶化を……!」
 赤紫色のケープの男がさらに叫んで、役人登用試験のために集まった若者たちはそれぞれにヤイバシラの方へと手をかざす。ヤイバシラの崩壊を止めてリクィルの流出を防ぐためには樹の表面近くのリクィルを鎮静化し、再結晶化する必要があった。それには魔力物質を制御する法、つまり魔法という手立てを使うよりほかない。
 魔法は何も特別な能力ではなく、一般家庭で普段から使われる日常的なものだ。たとえばかまどで火を焚くのも燃料となるリクィルとそれを活性化させるための魔法があって初めて可能になる。魔法を使うことは生活に欠かせない技術で、誰もが子どもの頃から自然と訓練しているものなのだ。だからここにいる誰もが魔法を使うことができて当然である。
 しかしヤイバシラの中を流れるリクィルを再結晶化させるとなると話は別だ。純度の高い魔力物質を扱うということは燃え盛る火の中に手を差し入れるようなもので、かまどに火を入れるのとはわけが違う。誰もが魔法を使えるといってもそれはあくまで日常生活に不自由しない程度に使えるということであって、リクィルを思いのままに操れるわけではないのだ。
 ヤイバシラの表面からリクィルの結晶がばらばらと剥がれ落ちる。赤紫色のケープの男を始めとして皆が必死に再結晶化の魔法を行使するが、残念ながらそのほとんどがヤイバシラに届く前に落ちてくる結晶に阻まれて無力化されている。
 紅い髪の青年はその様子をじっと見守っていたが、やがて庇っていた少女に対して少しだけ困ったように笑いながら言葉を掛ける。
「ごめん、僕、行ってくるよ」
「えっ……」
 少女が小さく息を呑んで、青年はもう一度彼女に微笑みかけてからくるりとヤイバシラの方へ向き直った。それは彼の故郷にある古い大樹が葉を散らす姿にも似て、しかしそれとは異なり自然の理とは程遠い残酷さで魔力を帯びた光をばらまいている。青年は小さく息を吐いた。
「正直自信はないけど、でも結晶なら」
 彼はそう呟きながらヤイバシラの根元へと近付いていく。誰もが己の身を守るのに必死で、彼の行動には気付かない。
「うまくいきますように」
 彼はヤイバシラの透明な表面にその手を当てた。きゅう、と収縮するような感覚が手の平から伝わってくる。彼は目を大きく見開いたままもう一度ヤイバシラの巨躯を見上げた。視界にきらりと光る花びらのような輝きが映り込んで。
「あっ」
 ちりっとした感覚があった。彼はヤイバシラから手を離し、自分の左目を押さえてうずくまる。目の中で小さな花火が弾ける感覚がして全身が震えた。そして彼はやっと我に返る。
 遅れに遅れてやってきた混乱と左目の中をかき混ぜられているような強烈な異物感、それに痛みとが彼の脳を激しく揺さぶっているようだった。声にならない声が彼の口から漏れだす。
「――――――っ!」
 突然、彼が左目を押さえる指の間から紫がかった液体が大量に噴き出した。血ではない。それは外気に触れた瞬間に氷のように固まり、すぐ近くにそびえたつヤイバシラへと吸い寄せられていく。彼の左目から噴き出した紫色の結晶がみるみるうちにヤイバシラの根元をぐるりと取り囲むように張りついて、それはさらにヤイバシラの表面を覆うように上へ上へと広がっていく。
 誰かが気付いた。ヤイバシラの軋みがやみ、紫がかった新しい結晶が古い幹を包むように煌めいていることに。そしてすっかり穏やかになったヤイバシラの根元でひとりの青年が左目から無色透明の涙を流しながら茫然と新しい結晶樹を見上げていることに。
 彼は頭の左側でひとつに結った紅い髪を揺らして後ろを振り返る。「どうしよう」と、ひどく困った様子でそれだけを呟きながら。

2017/05/23

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