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花と綺羅玻璃:第1部 結晶遣いと砦の都

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第2話 塞都 2

 待機室とやらは説明会の部屋とは少し離れた場所にあった。これはもし他の新人職員たちに置いていかれていたなら辿り着くまでに迷ってしまって相当の時間がかかったことだろう。このようなちょっとした行動でさえアズリにとっては不慣れで、一瞬でも気を抜くとその場に取り残されてしまう。集団行動とは縁のない育ちも災いしているのだろう。初日から先が思いやられることだ。
 さて、待機室に来たまではいいものの棚にあるはずの警棒はどこにも見当たらない。まさか出遅れたためにアズリの分はなくなってしまったのだろうか。そう考えて焦ったアズリの目の前に横からひょいと白い棒状のものが差し出された。長さはアズリの肘から指先くらいまでだろうか。警棒? と疑問形で呟いたアズリに誰かが声を掛ける。
「どうぞ」
「あ、どうも……」
 差し出された警棒を受け取ってからアズリはやっと隣に人がいたことに気付く。誰かと思えば、ここに来たとき最初に挨拶を返してくれた青年である。どうやら彼がノイラ=モルナグーストらしい。
「ええと、よろしく」
「よろしくお願いします」
 これから五日間コンビを組むことになる同僚を相手にアズリはぎこちない笑顔で声をかけ、一方のノイラは表情のひとつも変えることなく挨拶の言葉を口にする。素っ気ない態度は元々なのか、それとも緊張からくるものか。あるいはアズリと組むことに何か不満があるのだろうか。
 あるかもしれない。段々と卑屈な方向へと思考が引っ張られていくのを感じながらアズリは警棒を帯に吊るして一度背筋を伸ばす。
「じゃ、じゃあ行こうか」
 アズリが気を取り直してそう言うと、ノイラはやはり全く表情を変えないままでこくりと頷く。一抹の不安はぬぐえないものの、初仕事で不安を感じない方がおかしいと一般論で思考に決着をつけてアズリはようやっと待機室を出た。そこには様々な色のケープをまとった新人職員たちがいて、外勤の者も内勤の者も先程より少しだけ緊張の解けた様子をしている。アズリたちは職員たちの間をすり抜けるようにして先を急ぐ。
「弱そうなコンビだな」
 後にしてきた集団の中からそんな声が聞こえてアズリは思わずううと口元を曲げる。アズリの身長は成人男性の平均よりも低く、身体つきも決してたくましくない。顔立ちも人を威嚇できるようなものではないし、普段話すときの声も大きくない。後ろ姿だけなら女に見える、と以前オゥヴァから指摘されたことさえあるくらいだ。
「弱そうに見えるんだろうなあ……」
「……おれも含めてです。気にしていたらきりがありませんよ」
 外へ出るための廊下を歩きながらぼやいたアズリにノイラは涼しい顔のままそんな慰めを口にする。なるほど確かにノイラも細身で優しげな面差しをしており、フレームの細い眼鏡のせいもあってかひとまず腕っぷしが強いようには見えない。弱そうに見える、というのなら彼もアズリとそう変わらないのかもしれない。
 街へ出るとノイラはアズリを先導するように歩き始めた。置いていかれないように慌ててついていくアズリに彼は「おれの知っている道でいいですか」と今更のように尋ねる。
「ノイラは塞都出身なの?」
「はい。アズリさんはあまりそうは見えないですが、塞都出身ですか」
「いや、見た通り……違うよ」
「そうですか。だったら道案内はおれがします」
「うん、よろしく」
 こうして初仕事はノイラの後について歩くことになった。彼の若草色のケープが揺れるのを見ながらアズリはまだ歩き慣れない塞都の黄色い煉瓦道を進む。塞都の街路は塞舎の建物と同じようにひどく入り組んでいて、道だと思って踏んでいるといつの間にか建物の屋根の上に出たりする。長い年月をかけて建物の上に建物を建てたり、その壁を壊して新しい道を造ったりということを繰り返してきた結果、この立体的な迷路ともいえる街ができあがったそうだ。アズリたちが今日回る予定の5つの街区というのはそんな複雑な街で唯一整っている構造で、花弁のような形をした街区ひとつひとつが門で連結されている。要するに5つの立体迷路が塞舎をぐるりと取り囲んでいるのが塞都という街の形なのだった。ちなみにオゥヴァの店がある街区はキガラキ区といい、ヤイバシラはその2つ隣のオツハール区に立っている。
 アズリたちはキガラキ区とオツハール区に挟まれたミキト区に入る。街区同士を繋ぐ門を守っている軽装備の兵士からご苦労様ですと挨拶されてアズリは覚束ないながらもご苦労様ですと返した。その間にもノイラは勝手知ったる様子でどんどんと先へ歩いていく。門から離れてしばらく歩くと少しばかり薄暗い道に入る。高い煉瓦の壁に挟まれた道はわずかに湿気が溜まっているようだ。どこからか酒の匂いもする、とアズリは辺りを見回す。
 そのときだった。どん、と何かが勢いよくアズリにぶつかったかと思うと帯に差していた警棒を抜き取り走り去る。後ろ姿を見ればそれはあまり綺麗でない格好をした少年だった。
「え、何!?」
「ひったくりです、よくあることです」
 ノイラの声はここにいたってもまだ冷静だった。ひったくりって、とアズリがまごついている間にも彼は俊敏な身のこなしで少年盗賊を追う。
「け、警棒盗んで何になるの!?」
「役人の警棒には微量ながらリクィルが使われているんです。売ればそれなりの値がつくんですよ」
「そういうことは早く言って……!」
 まさかたかが警棒ごときに盗まれるほどの価値があるとは思っていなかったアズリである。塞都では常識なのだろうが生憎こちらは森の奥にある小さな里で生まれ育った生粋の田舎者だ。都会の常識にはまだまだついていけそうにない。
「アズリさん、そっちへ行きますよ」
 路地を抜けるノイラの声は笛のようだった。大きな声ではないというのにまっすぐにアズリの耳に届く。いつのまにかノイラは少年盗賊をうまいこと挟み撃ちにすることに成功していた。ノイラに追われて駆けてきた少年盗賊はまんまとアズリの目の前に飛び出してしまう。
「か、返して!」
 アズリはできる限りの声を張り上げながら少年盗賊に向かって手を伸ばした。すると少年は小さくひっと息を呑んだかと思うと、先程盗んだ警棒をアズリに向かって投げつける。勢いよく飛んできたそれをアズリは思わず受け止め、その間に少年はどこかへと姿を消していた。
 ほう、とアズリの口から深い息が漏れる。近付いてきたノイラが無表情のままで「逃がしたんですか」と少しだけ咎める口調で言った。
「警邏中に盗賊を逃がすなんて、始末書ものです」
「でも、盗まれたものは戻ってきたし……」
「甘い、って言っても分かりませんか。……今日は初日だからお咎めなしで済むかと思いますけど、今後はそうはいきませんよ。相手があまりに格上だったならともかく、年端もいかない子どもに後れを取るなんて」
 ノイラは少しだけ苛立っているようだった。そうだろうな、とアズリも彼の内心に同調する。しかし今アズリの中にあるのは安堵の方が大きかった。
「後れを取るも何も、ひったくりに遭うなんて初めてだったんだ。勘弁してよ」
「その程度のことで」
「その程度って……いきなりどつかれてびっくりするでしょう、普通」
 アズリの言い訳にノイラは小さく息を吐いた。さらに怒らせてしまったのだろうか。しかしノイラは変わらず感情を見せない顔で、それでいてどこか呆れたような声音でこう告げる。
「だって、あなたはエルダーでしょう」
 ノイラの指摘にアズリの表情が強張る。どうして、と口にしたアズリにノイラはいかにも当然そうに変わらない声で答える。
「分かりますよ、この街には色々な人種の人間がいます。エルダーだって珍しいけれどいないわけじゃありません」
「見た目で分かるものじゃないと、思うんだけど」
「長い名前、短い苗字。それに何よりあの日結晶樹から溢れたリクィルを再結晶化させた強力な魔法親和性。おれも見ていたんですよ、あれ。創世の神より時代を見守る役割を与えられたエルダーは神の理である魔法に精通していると聞きます。実年齢より若く見えるのもノーンより遥かに長命だからだと」
「……ええー……」
 参った。確かにノイラの指摘は概ね正しく、アズリはエルダーと呼ばれる少しばかり特殊な人種に属している。故郷を同じにするオゥヴァもまたそうであり、どちらかといえばオゥヴァの方がノイラの語ったエルダーの特徴によく当てはまっている。オゥクルーヴァというのがオゥヴァの省略前の本名で、実年齢はアズリよりひとつ下の25歳であるものの傍目には十代にしか見えない。そして何より彼は相当の魔法の使い手である。結晶を作ることしかできないアズリはその点においてエルダーの中では非常に無能なのだった。
「エルダーがみんなすごい魔法使いってわけじゃないよ……」
 そう言いながらアズリは内心で付け加える。自分ほど下手なのもそうそういないけれど。
「ヤイバシラの件は、あれは本当にたまたまうまくいっただけなんだ」
「そうなんですか。そうだとしてもあのときあなたは確かにおれらを助けてくれましたよ」
 ノイラは相変わらず涼しげな無表情のままでそう言う。結果を見ればそうかもしれないが、もう一度同じことが起きたときにアズリが対処できるとは限らない。だからアズリとしてはエルダーだからと変に期待をかけられたくはないのだ。よくも悪くも目立ちたくはない。能力がないのだからなおさらである。
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、本当に僕は大したことのない奴だから。そう思っておいてほしい」
 早口で告げた言葉は刺々しく聞こえたかもしれない。ノイラはそれ以上何も言わず、アズリもまた沈黙するしかなかった。

「ああ、アズリスタルさん。ちょっと時間をもらってもいいだろうか」
 塞舎へと戻ったそう声を掛けてきたのはサクラだった。外勤の報告を終えて警棒を返し帰る準備をしていたアズリはぎょっとして上司の顔を見る。何か咎められるようなことをしただろうか。ひったくりの件についてはありのままを報告した上で「次は逃がさないように」と注意を受けて落着したと思っていたのだが。するとサクラはそんなアズリの反応に小さく苦笑して「怯えないでついてきてほしいな」と柔らかな声で告げた。
「すまないね、個人的な用向きなんだ。ああ、でもちゃんと時間外手当はつけるように手配したから、そこは心配しないでくれ」
「はあ……」
 サクラはアズリを環境課の部屋がある棟から連れ出すと、塞舎のうちでも外れにある別棟へ行くと言って廊下を進んでいった。突き当たりの扉を開けるとそこは屋根のない渡り廊下になっていて、すぐ向こうに別棟の扉が見える。乾いた風がサクラのバンダナとアズリの髪を等しく揺らした。
 渡り廊下からは塞都の街並みがよく見えた。砂色をした煉瓦の建物が幾重にも積み重ねられた、幼い頃に遊んだ積木細工を思わせる楼閣。玩具とは異なり人々が暮らしを営むそれらはどこか歪で、それでいて活力に満ちて見える。
 建物の向こうには天に向かって枝を伸ばす結晶樹がそびえている。赤紫色に夕日の金色を透かして煌めく魔力の樹はただただ美しかった。そうだ、とアズリは自分がここに来た理由を改めて強く思い出す。
 故郷で一番古く、一番背の高い木に登った者だけが見られる特別な景色があった。朝も昼も夕も遠く地平の向こうで光を放つ不思議な『何か』は暗い真夜中になるとより目映く煌めいて、星より強く空を照らしていた。それが塞都にあるヤイバシラというものだと聞かされたときからアズリはいつかきっとそれを間近で見ようと決意していたのだ。
 からりとした風に吹かれ、アズリは今一度自分がどこにいるのかを確かめていた。
「あれー、サクラ兄様?」
 不意に明るい声が聞こえ、それに応えてサクラが「やあ、メル」と返す。メルと呼ばれたのはたった今別棟から出てきたピンク色の長い髪を持つ少女のことだろう。ただアズリは彼女ではなく、彼女と共に別棟から出てきたもうひとりの少女を見つめる。
 彼女は白い髪を短めに切り、顔の横に垂れたその一部を紅く染めていた。同じく白い睫毛に縁取られた目はクリソプレーズの青緑。そして彼女はアズリたちではなく渡り廊下の低い柵越しに見える街並みへと視線を向けているのだった。
 先程のアズリと同じように、ヤイバシラの見下ろす街並みへと。

2017/07/22

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