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花と綺羅玻璃:第1部 結晶遣いと砦の都

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第3話 剣と花々 2

 目の前に影……と呼ぶには少々質量のあるぽよんと丸くて黒い何かが飛んできた。思わず避けそうになったアズリだったがすんでのところで気が付き歯を食いしばる。ずどん、と猛烈な衝撃がアズリの腹から胸にかけてを襲ったところで今度は目の前に神速の木剣が迫った。
「ちょっ、待っ……!」
 制止の言葉を途中で諦め、アズリは即座に腹部を押さえながら左方向へと転がり、さらにそれまで自分がいた場所に比較的軟らかな結晶の大きな塊を作り出した。速すぎる木剣は狙い通りに結晶を打ち砕き、緩衝材の役割を果たした結晶の欠片がきらきらと飛び散る中で剣の主はやっと動きを止める。
「うう……」
 ほっとしたのも束の間、アズリは腹に抱えた黒い塊がうめき声をあげたのを聞いてびくりと身体を震わせた。
「油断、したつもりはないんですけどぉ……」
 もぞ、と黒い塊が動いてアズリに寄り掛かるようにしながら身体を起こしていく。丸まっていた背を伸ばすとそれは可愛らしい少年、あるいは少女になった。
 むくりと顔を上げた少年あるいは少女がその大きな丸い目でじっとアズリの顔を見る。きょとんとしているようにも睨みつけているようにも見える不思議な視線はアズリをたじろがせた。少年あるいは少女の朱色がかった目が一度大きく瞬く。
「どうして今避けなかったんですかあ」
 その疑問は実に理解できないという素直な声音と共にアズリへとぶつけられる。少しの衝撃がアズリの肩を揺らして、アズリは「どうしてって」と質問の言葉を繰り返した。
「避けたら君が壁に激突しちゃうでしょ。怪我したらどうするの」
「じゃあ、ぼくを庇ったんですか」
 大きな瞳がさらに大きく見開かれて、そこに映るアズリの表情はますます困惑したものになっていく。
「どうしてぼくを庇ったりするんですか。先生は先生なのに」
「いや先生だからこそ……? そうじゃなくても、普通目の前で怪我するかもって子がいたら庇うよ」
「そんなことしたら先生が怪我をしてしまいますー……」
 しゅん、と今度は大きな目を伏せてうなだれる。その様子を見てアズリは苦笑した。
「大丈夫、僕これでも結構丈夫だから」
 家に帰れば折れた骨程度なら一瞬で接いでくれる優秀な治療師がいるから、とは敢えて言わない。実際それを理由にすれば当のオゥヴァは腹を立てるだろうし、アズリも積極的に彼を頼りたくはない。自身のことを丈夫といったのは誇張でもなく、少年あるいは少女ひとりを庇うくらいであれば何とかなるという自信はあった。
「先生……」
 ひとり頭の中で自分の言動を検証していたアズリは目の前の少年あるいは少女の声で現実に意識を戻した。そこでは少年あるいは少女が潤んだ大きな瞳でじっとアズリの顔を見上げている。
「えっ……な、何?」
「なんでも、ないですー……」
 とてもそうは見えないぼうっとした様子で答える少年あるいは少女はアズリの前でゆっくりと立ち上がった。どうやら怪我はなさそうだ。黒を基調とした服から伸びる細い腕、その先の手に刀身の黒い短剣を携えて立つ姿は少女めいた容姿と裏腹にどこか凶悪ですらある。とそこでアズリは気が付いた。
「ちょっ、君、それ、真剣!?」
「そうですけど」
 それが何か? と言わんばかりの口調にアズリは自らに課せられた役割を思い出す。監督としてこの剣塾にいる以上、アズリは誰もここで大きな怪我をしないよう見守り、無意味な危険があればそれを排除しなければならない。そもそも木剣ですらまともに当たれば骨を砕くほどの威力があるというのに真剣を使うなどアズリの常識では考えられない。
「没収しますっ!」
 アズリが思わず大声で叫びながら少年あるいは少女の手から短剣をひったくると、当の彼あるいは彼女は何故かふにゃりと溶けるように笑ったのだった。

「さっきのはおっかしかったなあー。アズちゃん先生本気で焦った顔してるんだもん」
「そりゃあ焦るでしょ……君たちの腕で真剣勝負なんてしたら下手をしなくても死んじゃうよ」
 乱入者の名前はエリークスといった。なんでも塞舎の学徒ではないのだが特別に入塾を許可された新入生なのだという。そんなことを教えてくれたメルキスが笑いながら話すのを、アズリはとても笑えない疲労を感じながら眺める。こうして見ると今ここにいる少女たちの容姿は実に多彩だ。色白でピンク色の髪、赤い瞳という塞都出身らしい雰囲気のメルキスに、白く短い髪の一部を紅く染めた青緑の瞳のシェリロ。彼女の肌は塞都出身にしては色が濃く、かといってアズリたちのような森の人間ほどオレンジがかってもいない。そしてエリークスは黒髪に褐色の肌、朱色の瞳という恐らくは海に近い方の生まれであろう外見をしているのだった。模擬戦後の休憩ということで道場のまんなかに丸くなって座るアズリは自分がいつのまにか色とりどりの3人に囲まれていることに気付いてわずかに赤面する。
「え、えっと……そういえばさっきは突然エリークスが入ってきてびっくりしたよ」
 何か話題を、と思って口を開いたアズリにメルキスが笑いながら頷き、答える。
「エリィは忍び込みの天才だからねー」
 忍び込むとはどういうことだ。ここは剣塾なのだから、所属しているのなら普通に扉から挨拶をしながら入ってくればいいではないか。何故わざわざ忍び込んで鍛錬に割り込むのだ。これでは監督をしようにも命がけだ。
「アズちゃん先生、何考えてるのか何となく分かるけどさ。多分それって甘いよ?」
「甘い?」
 メルキスに言われてアズリは思わず眉をひそめる。甘いというのはつまり、どういうことか。
「先生。塞舎の中は外より大分安全ですけど、外はそうもいかないんです」
 今度はシェリロが言って、エリークスも大きく頷く。
「闇討ちなんて毎日あることですしい、昼間だって路地を歩いていたら結構襲われるんですよー」
「ちょっと待ってそんな物騒なことを普通の表情で言わないで」
 闇討ちが日常茶飯事で昼間でも人気のない場所を歩けないというのはアズリの常識とはかけ離れている。確かにオゥヴァからもそのような話を聞かされてはいた。環境課の外勤で街を回ったときにもひったくりに遭遇した。それでもまだ序の口だったというのか。塞都という街はこのような少女たちが護身術の域を超えた剣技を学ばないと生きていけないほどに危険なのか。渋い顔で黙るアズリにシェリロが「でも」と穏やかに声をかける。
「先生には今のところ『殺される理由』もないでしょうし、塞舎の新人職員ということで『殺されない理由』がありますからそこまで心配しなくても大丈夫だと思います」
「……理由のあるなしで殺されたり殺されなかったりするの?」
「基本はそうですよ。だからこの街ではみんな何かしらの『殺されない理由』を持ちたがるんです。私たちが剣の腕を鍛えるのもそういうことです」
 剣の腕が立つことが知られていれば少々の『殺される理由』があったとしても襲われる可能性は低くなる。『殺される理由』はたとえば金銭などの財産だったり利害関係だったりあるいはもっと感情的なものだったりするが、相手が身を守る術に長けていて返り討ちに遭うかもしれないとなればそのリスクと目的を天秤にかけて躊躇する余地が生まれる。そうしてできたわずかな隙間が、この街で生きていくには非常に重要なのだという。
「『殺されない理由』が『殺される理由』より大きくて強ければひとまずは安全です。暗殺者だって自分が殺されたくはないですから」
「……怖い話だね」
「そう思う人も少なくないでしょうね」
 私はそうは思わないけれど。シェリロの返事にはそのような含みがあった。それはそうだろう。もしアズリのようにこの街の仕組みを怖いと感じているなら長居をせずに街を出ていくか、あるいは。
「よく分かんないけど、アズちゃん先生はまだ塞都に来たばっかりなんでしょ? すぐは無理だろうけどさー、馴染まないとそのうち『理由』ができて殺されちゃうよ」
 なんでもないことのように言うメルキスにアズリはただ黙って視線を向ける。いくらアズリでもそれがただの脅しでないことくらい理解できた。
「馴染まないと、か」
「……あのお」
 くい、とアズリのケープの裾を引いてエリークスがおずおずと口を開く。
「大丈夫、ですー。アズリ先生はあ、馴染まなくても」
「えっ……なんで?」
「なんでもですー」
 そう言ってにこりと笑うとエリークスは急に立ち上がり、アズリの懐から没収された短剣をさっと抜き取るとそのまま扉を開けて道場から出ていってしまう。エリィ、今日はもう行っちゃうのかー。そう言ってメルキスがつまらなそうに口先を尖らせた。
「エリィも帰っちゃったし、メルたちもそろそろ上がろっかー。ね、シェリロ」
「そうだね」
 シェリロが答えて立ち上がる。メルキスがそれに続いて、アズリもつられるように立ち上がった。彼女たち以外に塾生はいないので、彼女たちが帰るというならアズリも帰っていいということになるのだろう。成り行きに任せて道場から出たところでシェリロがメルキスに向かって言う。
「メル、先に帰って。私はちょっと外を散歩したいから」
「うん分かった。気ぃつけてねー」
 メルキスは気軽な調子で頷き、軽く手を振って塞舎の本棟へと入っていく。棟と棟の間の渡り廊下からは相変わらず街とヤイバシラがよく見えた。しかし外を散歩するといってもこれまでに聞いた話ではとてもではないが気楽に散歩ができるような外ではないはずだ。そう考えるアズリをよそにシェリロはすたすたと本棟に入り、そして本当に外へと繋がる廊下を歩いていく。
「あ、ちょっと、シェリロ……」
「先生も帰るんですよね? 途中まで一緒に行きませんか」
 アズリが話し掛けようとしたタイミングでまたしてもシェリロが口を開いた。アズリは続く言葉を見失ってただ「ああ、うん」とだけ返す。
 夕刻の塞都は冷たく乾いた風に吹かれている。外を歩く人の数は昼間より格段に少なく、建物の陰には紫がかった闇が落ち始めていた。ここが本当に物騒な街ならば、きっとあの闇にはアズリの知らない、知りたくないものが潜んでいるのだろう。
 そんなことを思いながら歩くアズリの横でシェリロがふと足を止める。何かあったのかと振り返ったアズリはそこにあの日見たのとまったく変わらない彼女の青緑色の目を見た。
「この間はありがとうございました」
 シェリロはそう言ってアズリに向かい深々と頭を下げた。薄紫の夕映えに彼女の白い髪がほんのりと染まって、その輪郭がぼうっと白く光っている。アズリはそれを見ながら彼女があの日のことを覚えていたことに少しだけ安堵した。安堵している自分に少しだけ驚きもした。
 覚えていてほしかったのか。あの日はそんなことを考える余裕もなく、ただ無事に逃げおおせてくれていればそれでいいと願ったのだけれど。予想だにしなかった再会にアズリは少しばかり欲張った感情を抱いてしまっていたらしい。
「無事でよかったよ、本当に」
 だからアズリはそれだけを告げるに留める。本当はもっと何か言いたいようにも思ったが、それを口に出すことはできないと感じていた。シェリロは顔を上げ、白く長い睫毛に縁取られた大きなクリソプレーズの瞳をぱちりと一度瞬く。それから彼女は目を細め口角を上げ頬を持ち上げて顔いっぱいに笑ったのだ。
「私、抜け道を知っているんです」
 シェリロはまるでいたずら好きの子どもが大切な秘密を告白するかのように楽しそうな調子で言う。
「ヤイバシラの周りって普通の人が入れないようになってるでしょう? でも実は一箇所だけ入れる場所があるんです。この間もそこを通ってこっそり入って、それでヤイバシラを見ていたんです」
「……あ、だから……」
「はい。助けてもらったのに失礼だとは思ったんですけど、私があそこにいたことがばれるとアズリ先生にもサクラさんにも迷惑がかかるので。だから先生、この先もあの日のことは内緒にしておいてください、ね」
 唇に人差し指を当ててにこっと笑う、そのシェリロの仕草にアズリは「参ったな」と肩をすくめて笑った。
「そんな風に可愛くお願いされたら断れないよ」
「ふふ。断ってもいいんですよ? そうしたら私は先生を消そうとしますけど」
「え、か、可愛くない」
「ふふふ」
 なるほど、これはお願いではなく脅しらしい。大人しく要求を呑んでおけば「可愛いお願い」で済ますこともできる。そういうことなのだろう。
「やっぱり怖いな、この街」
「うまく立ち回れば大丈夫ですよ」
 夕暮れの塞都をシェリロと並んで歩く。おかしなことになったものだと思いながらもアズリの気分は決して悪いものではない。別れ際、シェリロは改めてアズリに向き直って微笑みながらこう告げた。
「よろしくお願いします、アズリ先生」
 こちらこそ。
 その言葉をどんな表情で返したのだろう。アズリは自分でもよく分からないままにシェリロと別れ、帰路についた。なんだかひどく胸の底が熱かった。

2017/09/21

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