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花と綺羅玻璃:第1部 結晶遣いと砦の都

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第5話 月の爪痕 1

 塞舎さいしゃを出てからずっと跡をつけられている。
 乾いた煉瓦の道は足音をよく跳ね返す。アズリの靴が鳴るのに合わせて微かに別の音が重なっている。わざとアズリの歩調に合わせているのでなければ、入り組んだ街の分かれ道でさてオゥヴァの店はどちらの方角だったかといちいち確認するために立ち止まるアズリの靴音と重なり続けるはずがない。
 よくあることだと同期のノイラも言っていた。闇討ち・強盗、そんな物騒なことが自分の身に降りかかるはずはないなどとそこまで甘く考えられるほどにアズリは楽天家ではないし、元々オゥヴァからも忠告されていたことなのだからそれを忘れるほどに薄情でもない。外勤1日目にして遭遇したひったくりもここでは何も珍しいことではなかった。あれから外勤に出る度に何かしらの事件に出くわしている。怪我を負った状態で道端にうずくまっている老人だとか、店のものを盗まれたと訴えてくる店主だとか、先日までなんともなかったはずが一夜にして叩き壊されたと思われる納屋だとか。だから覚悟はしていた。覚悟はしていたが、本当に来られると困ってしまう。
 紫色の夜空の中、建物に切り取られた狭い狭いそこに月が浮かんでいた。細く尖った月が意地悪く笑っているかのように見えて、アズリは一度身震いする。足音はわずかの狂いもなく、アズリの小さな怯えにさえぴたりと重なりながらついてくる。はあ、とアズリは息を吐き出して。
「用があるなら、声をかけてよ」
 立ち止まらず、振り返らず、声だけを張る。びん、と空気を震わせた残響が消えて辺りは再び1人分にしか聞こえない2人分の足音だけの世界になった。夜の闇に色を失った煉瓦の壁の角を曲がるとそこは一際暗い路地になっていて、その向こう側に比較的大きな通りがあるのが分かる。アズリは路地に入り、そこで立ち止まった。そして再び足音の主へと声をかける。
「ずっとついてこられるとさあ、怖いんだよ」
 闇に目を凝らすとやっとそこに人らしきものの姿を捉えることができた。赤黒い布をたっぷりと使った衣装で全身を覆った奇怪な姿である。詳しく観察している暇はない。アズリがその姿を確認した途端にそれは視界から掻き消え、残像の名残に一瞬だけ鈍い光が閃く。刃、とアズリが認識するより早くそれはアズリの首を斜め後ろから狙ってきた。
「ちょ、待って!」
 待てと言われて待つ強盗もいないよな、と奇妙に冷静な思考がアズリの脳内で溜め息をついている。一方身体は正直なもので、ぎらりとした刃の軌跡から逃れる動きはアズリ自身も驚く程に素早い。嫌気と感心が同時に湧き起こり、すぐに消えた。
「危ないからやめて、って。言うだけ無駄かな」
 ほとんど独り言のように言葉を零したアズリに至極当然とでもいうかのように新たな刃が迫る。その動きは速く、さらに布の多い衣装が身体の線を隠しているために相手がどんな体格をしているのかすら分からない。ただ限りなく闇夜に近い空の下でも煌めく刃だけがアズリにとって逃げるための指標となる。続けざまに放たれる斬撃の合間に見える光は赤みを帯びているように思えた。
 刃の軌跡はそのほとんどがアズリの視界のごく端の位置で閃く。つまり相手はアズリの死角から攻撃してきている。これじゃあひとたまりもないよ、とアズリは必死に身をかわしながら考える。なるほどこの街では襲撃する側も相当に手練れであるらしい。そうでなければ目的を達せないどころか返り討ちに遭う危険があるのだろうということはさすがのアズリでも見当がつく。いや、見当がつくようになってしまった。
 大きな通りに出てもアズリたち以外の人影は見えない。この街では日が暮れてから外出する者などいないのだ。いるとすればそれはよほどの命知らずか、あるいは日の出ている時間帯にはなせない仕事をなす者だということになる。たとえ大声を出しても誰も助けになど出てこないのだろう。関わり合いになったところで得があるはずもないから。ここはそういう街なのだ。
 余計なことを考えている余裕はない。アズリは軽く頭を振って、そこに襲い来る斬撃に意識を集中させる。大通りを走り抜けた先で一度振り返って刃を受け流す。背後には建物の壁があった。左右の路地は細く先が見えない。奥が袋小路なら退路を失うことになる。
 逃げられない、と判断した瞬間にアズリの目の前を鋭い風が駆け抜けた。1歩後ずさっていた脚が震える。もう考えている暇はない。左耳の後ろに気配を捉え、右斜め前に跳びながらそこに結晶の盾を作り出す。ばん、という破裂音とともに結晶は呆気なく割られるが一時の防御としては悪くない。辺りに散った結晶の欠片が夜の中でもほのかにきらめく。
「ねえ、何が目的なの。僕はお金はそんなに持ってないけど、それが目的なら命には代えられない。有り金置いて逃げるよ」
 アズリが語りかけ、返る答えは刃。またも結晶の盾で防いだアズリの首筋を汗が伝う。伝った汗が小さな球状の結晶となって、割れた盾の残骸の上に落ちる。続けざまに放たれる斬撃をアズリもまた次々と結晶の盾を生成することで防ぐ。ばん、ばん、と盾の割られる音に交じってかしゃん、かしゃん、と結晶の欠片同士が降り積もりぶつかる音が鳴る。音を立てているのはアズリの魔法ばかりで相手はひたすら静かに鋭く刃を振るうばかりだ。おそらくまだまだ余裕があるのだろう。この攻防を一晩中でも続けられる程度には。
 そのような相手にいつまでも同じ戦法は通用しない。
 アズリの作り出した盾が相手の刃を受け止めた。アズリは透明な盾越しに刃を、そして相手の目元を睨む。赤い色をした刃は幅広で、湾曲した外側だけが鋭く研がれている独特の形状のものだ。残念ながら相手の顔は赤黒いフードと襟巻に覆われてほとんど見えない。ただ刃を受け止められたことに動揺している様子がわずかながら伝わってきた。
 アズリは何も言わずに刃を押し返す。そしてすぐに煉瓦の路面を蹴って横ざまに跳ぶ。不意をつかれた相手はそれでも体勢を崩すことなく追い掛けてくる。アズリは手近な壁目掛けて結晶の盾を展開し、それに飛び乗る形でさらに上へと跳び上がった。即席の足場はそれで崩壊する。
 建物の影に切り取られた夜空を背景にアズリはふわりと宙を舞う。この感覚は嫌いではない。森の中で育ったアズリにとって、木登りやその高さを利用した遊びはとても慣れ親しんだものだ。街の中でも似たような動きをすることはそう難しくない。
「ねえ君、僕は簡単な相手じゃないよ。もう分かっていると思うけど」
 敢えて挑発するように言ってみる。相手が強盗やあるいは雇われた暗殺者の類であるなら割に合わない仕事はしないだろう。少なくともアズリなら面倒な対象からは手を引いて楽な内容でことを済ませたい。
 しかしこの相手はアズリを諦める気はないようだった。アズリが道の脇の階段を2段飛ばしで駆け上がれば相手は倍の速度で追ってくる。アズリが結晶の足場を使って屋根に飛び乗れば相手は壁のわずかな凹凸を利用してすぐさまよじ登ってくる。森育ちのアズリと同じくらい身軽で、この夜闇の中でもアズリの動きを正確に把握して追ってくる相手にアズリはどう対処していいか分からなくなりつつあった。
 どうにかして逃げ切りたい。ここまでしつこく追ってくるのなら狙いはアズリの持ち物などではなく、アズリ自身なのだろう。それは非常に恐ろしいことだ。幸いというべきか何というべきかアズリは生まれてこのかた命を狙われた経験がない。未知への対処は難しく、ただでさえ慣れない職場の宴席帰りで疲れている頭ではこれ以上の策も思いつきそうにない。勘弁してよ、とアズリは涙目になりながら隣の建物の屋根へと飛び移る。相手もまた当然のように後を追って屋根の上に降り立つ。そのときだった。
 どん、と突然夜中の街には似つかわしくない大きな音が鳴った。びくりと身体を震わせたのは相手の方で、アズリはそのわずかな隙をついて踵を返すと手刀で相手の手元を狙う。得物さえ失えば退いてくれるだろうという考えだったが、相手は寸でのところでアズリの攻撃をかわした。そううまくはいかないようだ。しかし今の出来事で流れが変わった。今しかない、とアズリは相手に向かって声をかける。
「聞いてもいい? 君は僕を殺そうとしているのかどうか」
「……」
 この期に及んで何を問い掛けているのか、と相手は思ったかもしれない。訝るような間が確かにあった。
「あのね、僕は殺されたくないんだけど」
 逃げてくれと願っていた。暗殺者に慈悲をかけるというわけではなく、単純にアズリ自身がこれ以上戦いを長引かせたくないのだ。互いに消耗すればするほど次の一撃で決めようという心理が強く働くようになる。生存本能が理性を押し潰す。たとえ相手が暗殺者であってもアズリはその命を奪いたくない。自分の手に誰かを殺めたという記憶を植え付けたくはないのだ。しかし極限まで追い詰められた状態でその利己的な思考を自分自身の命よりも優先させることはきっとできないだろう。そうして残るのはひどい後悔だけに違いない。勝つにしろ、負けるにしろ、だ。
「なんでさあ……こんな夜中に、訳も分からないままに、命のやり取りをしなくちゃならないの?」
 はあ、という溜め息はアズリのものではなかった。赤黒い影のような姿をした暗殺者の姿は次の瞬間にはもう街のどこかへ紛れて消えていた。結局最後まで声を聞けなかったな、とアズリはぼんやりとそんなことを考える。問い掛けた言葉は相手の耳にどう届いたのだろうか。

2018/02/03

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