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花と綺羅玻璃:第1部 結晶遣いと砦の都

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第5話 月の爪痕 2

 暗殺者の去った街は恐ろしく静かだった。細い月の下、誰もが寝静まっているだろう時間にアズリひとりがよその家の屋根の上で荒い呼吸を繰り返している。乾いた冷たい風が汗だくの頬にひりりと触れていった。疲労感がどっと押し寄せてくる。
「……帰らないと」
 今は考えるのも億劫であるが明日も仕事なのだ。なんとしてでもオゥヴァの店に帰って少しでも多く休息を取りたい。危なげない所作で屋根から降り、疲れた身体を引きずりながら顔を上げたアズリはそこでひとつ重大な事実に気が付いた。
「……ここ、どこ……?」
 そもそもがひどく入り組んだ造りをしている塞都さいとである。建物の壁も足元の道もほとんどが黄色い煉瓦で造られていて見分けがつきにくい上に、真夜中の暗さでは路地の奥を見通すこともできない。幸いにしてヤイバシラの光だけは夜でも淡く空を赤紫色に染めており、その灯りが右手に見えることから大まかな現在地を把握することはできるかもしれない。しかしそれも街に慣れた者であればの話だ。
 アズリは塞都に来てまだ日が浅い。外勤で街を回っているとはいってもそれは昼間のことで、仕事帰りの夕刻には店までの道を曲がり角の度に確認しながら歩く必要がある。そして確認していてもたまに道を間違えてひどく遠回りをする羽目になる。
 そんなアズリが暗殺者から逃れるためにひたすら駆けずり回ったのだ。当然というべきか、元来た道から外れないようになどと気を回している余裕はなかった。だから、つまり、簡単にいうと。
「迷子……暗殺者の次は迷子……」
 あまりの格好悪さにアズリは一度自分の顔を両手で覆い、嘆く。それからすぐに嘆いていても始まらないと改めて辺りを見回した。そしてまた、嘆く。
「駄目だ、全っ然分かんない。ここどこ……!」
 危機である。暗殺者の刃のような切迫感はないにしろ、帰れなければ明日の出勤にも差し支えて下手をすれば無断欠勤扱いになりさらに下手をすれば叱責だけで済まない処分が下される可能性にまで思い至ってしまう現実感溢れる危機である。自慢ではないがアズリにはこの街で自分を養えるだけの仕事を見付ける自信などない。塞舎をクビになったなら故郷に帰るしかないのだ。オゥヴァの店に無一文で居候を決め込み続けられるほどアズリは図々しくない。そうなりたくもない。
 能なしのくせに自尊心ばかり高い奴だ、とぼうっとした頭で考える。そんなだから故郷でも塞都でもうまくやっていけないのだと。夜の風が背中をひどく冷たくする。さほど強くもない風にあおられて制服のケープがばさりと音を立てる。
「うわっ」
 音に驚いたアズリは声を上げ、その自分の声に驚いてびくりと肩を震わせる。ひとりで何をやっているのだろうと自分自身に呆れ返ったところでまた夜風が背を吹き抜ける。同時に先程とは別の怖気がそこにぴたりと張りついた。う、とアズリの口から小さな呻き声が漏れる。
 背中にねっとりとした視線を感じた。暗殺者は逃げたはずなのにどういうことだろうか。まさか新手が来たのかと身構えたアズリだったがどこを見回してもそれらしき姿は見えず、襲ってくる気配もない。
「なんなのもう、気味悪い……うう」
 とにかく逃げた方がいいと判断し、アズリは視線から逃れるように早足で歩き出す。相変わらずここがどこなのか、自分が街のどこを歩いているのかさっぱり分からない。視線は適度な遠さを保ちながらずっとついてくる。背中の薄寒さをこらえて歩き続けるアズリはすっかり泣き顔になっていた。ひょっとしてこのまま夜が明けるまで追いかけっこが続くのだろうか。それはどうにか避けたいものだ。どうやって避けたらいいのかは見当もつかないのだが……。
 どれくらい歩き続けただろうか。随分長いこと歩いていたような、それでいて実はそれほど時間は経っていないような奇妙な感覚を覚えたアズリの背から急に気配が消える。それと同時にアズリははっと気付いて足を止めた。
「……嘘」
 どういうわけか目の前には見慣れたオゥヴァの店があった。建物の造りは周りと同じでほとんど見分けがつかないが、入り口横に『仮面屋』と書かれた看板が仮面らしき紋章と共に掲げられている。間違いない。アズリは辺りをきょろきょろと見回すが、ここまでずっとついてきていた視線はもうどこからも感じられなかった。
 まさか、とひとつの仮定が頭をよぎる。それを確かめるためにも、そして何より身体を休めるためにもとにかく店の中に入るのが先だろう。そう結論付けたアズリが扉に手をかけるや否やそれは内側からばあんと景気よく開かれて中から店の主であるオゥヴァが飛び出してきた。
「おかえりアズリー! 怪我してない? 血とか出てない? 貞操無事?」
「なんで職場から帰って早々余計な身体の心配をされなくちゃならないんだよ」
 半ば反射でツッコミを入れたアズリだったが、すぐに気付いてオゥヴァを睨む。このタイミングで扉を開けてきたことといい、もう間違いはないだろう。
「お前、僕に見張りでもつけてる?」
「あれー、やっと気付いた? 当たり前じゃん、俺の大事なアズリに何かあったらべふっ」
「黙れ変質者」
 アズリはオゥヴァを突き倒して店の中に入り、靴を脱いだ足でオゥヴァの頬を踏む。過保護すぎる幼馴染みはそれでもにこにことした笑顔を崩さない。
「ふぉうやっへふらおにありはろうっへひはらいおあえあ」
「何言ってるか分からないけど分かりたくない感じだな……」
「そうやって素直にありがとうって言えないお前が!」
 アズリの足を跳ね除けたオゥヴァが聞き取れなかった言葉を言い直すが、アズリはそれを無視して部屋の奥へ進む。いい加減お仕着せのケープを脱いでくつろぎたい。
「アズリぃー、たまには俺にも優しくしてよー」
「なんなんだよ気持ち悪い」
「だってさぁ」
 後ろから伸びてきたオゥヴァの左腕がぐいとアズリの首を抱えるようにして拘束する。そして驚くアズリのケープを空いた右手が取り去った。
「は? 返せよ」
「だってさー、アズリ。暗殺者には優しくするくせにさ」
 そう言ってオゥヴァが翻してみせたケープの背中部分にはざっくりと大きな裂け目ができていた。それを見たアズリはさすがにぎょっとして黙る。一体いつ裂かれたのかまったく覚えがない。裂かれたのはケープだけでその下の服はどうやら無事のようだ。手加減されたことは明白で、それに気付かなかったことは失態だ。どうりで背中が寒いわけだと妙に納得する反面、どうしようもない悔しさが込み上げてアズリは唇を噛んだ。
「あーあー、派手にやられちゃったねー。縫っとく?」
「……自分でやる」
「だーめ。お前裁縫下手だもん。大事な制服なんだから俺に任せておけって」
「いいから、自分でやるって!」
 アズリが手を伸ばすもオゥヴァはアズリの首を押さえ込んだままもう片方の手でケープをアズリの届かない位置まで持ち上げてしまう。アズリの腕の長さでは一回り体格のいいオゥヴァからケープを取り返すことは難しい。これ以上の抵抗は疲れるだけだと気付いてアズリはケープをオゥヴァに任せる。
 オゥヴァは本当に器用な男だ。おそらくは『仮面屋』の部下に命じてアズリの手助けをしたり、さらにアズリを店まで連れて帰ってくれたり、暗殺者に切り裂かれたケープの修繕を買って出てくれたり、炊事洗濯掃除に至るまで生活の全てを引き受けていながら涼しい顔をしていたり。器用で多才なこの男はそれでいてとてもそうは思えない能天気な態度でアズリに接してくる。変な奴だ、というのは故郷にいた頃から変わらないオゥヴァの印象だ。
「で、アズリ。どう? 初めてこの街で殺されかけた感想は」
「殺されかけてない」
「強情だなー」
 ひらひらと片手でケープを弄びながらオゥヴァが苦笑する。その目は笑ってはいても真剣で、それが分かっているからアズリは敢えて彼の顔を見ないままにする。
「強情でもいいけどさ、大事なことはちゃんと考えておいた方がいいぜー?」
「大事なこと?」
「なんでお前が暗殺者なんかに狙われなくちゃならないのか。理由もなく襲うほど相手だって暇じゃないはずだぜ」
 『殺されない理由』が『殺される理由』より大きくて強ければひとまずは安全だ。暗殺者だって自分が殺されたくはないのだから。そう教えてくれたのはシェリロだった。アズリは再び唇を噛み、それでも収まらない腹立たしさに舌打ちをする。どんな理由があったとしてもそれを天秤にかけて殺す殺さないの判断を下されるのではたまらない。しかしオゥヴァの言う通り、こうして狙われた以上は『殺される理由』の正体を突き止めなければ安全を得ることはできないのだろう。向こうの都合で勝手に理由が消滅してくれるならそれに越したことはないが、そうでないならこの先もまた襲われる可能性が高い。
「なんでそんなこと考えなくちゃならないんだ……僕は書類の書き方を覚えるので精一杯なのに……」
 頭を抱えるアズリに対してオゥヴァは慣れた手つきでケープの裂け目を縫いながら口元を小さく歪めて笑う。呆れたような、吹き出すのこらえているようなその表情にアズリが気付くことはない。壁一面に飾られた仮面の中でオゥヴァひとりが人間味のある複雑な色を顔いっぱいに湛えていた。

2018/02/03

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