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花と綺羅玻璃:第1部 結晶遣いと砦の都

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第6話 庭園 1

 たとえ前日夜に強制参加の新人歓迎会があっても、その帰り道で暗殺者に襲われても、それを撃退した後迷子になって帰宅が大変遅くなったとしても、翌日の勤務は通常通りの時間から始まる。今日も内勤のアズリが噛み殺しきれなかった欠伸をしかめ面で誤魔化していると背後に立ち止まる気配があった。
「おはようございます、アズリさん」
「うわっ」
 声を掛けられると思っていなかったアズリが椅子から落ちそうなほどに驚くと、声を掛けた方はいつも通りの無表情にわずかに怪訝そうな色を浮かべた。
「大丈夫ですか」
「あ、ああー……おはようノイラ。大丈夫、ちょっと気を抜いてただけだから」
「朝からあまり気を抜かないでください」
「はい」
 アズリはノイラが眠そうにしているところや怠そうにしているところを見たことがない。楽しそうにしているところも辛そうにしているところも同様に見たことがなく、つまりノイラはいつでも最初に会ったままの涼しげで素っ気ない様子を貫いているのだった。
 だからアズリは彼がアズリの着ているケープの繕い跡に気付いたかどうか分からない。忠告を無視した挙句怪我こそないものの襲われて制服を裂かれたことがノイラに知れたら、ノイラは呆れるだけかもしれないがアズリとしてはとても居心地の悪い思いをすることになる。もちろんそれはそれでアズリの落ち度でもあるのだから仕方がないのだが。
 アズリの内心をよそにノイラはただ挨拶を交わしただけで自分の机のある方へ歩いて去っていった。気付かれずに済んだのだろうか、とアズリがそんなことを考えながらそっとノイラの様子を目で追っていると、今度は別の方向から名前を呼ばれる。
「アズリスタルさん、手が空いていたらちょっと頼みたいことがあるんだが、今いいだろうか」
「あ、はい。なんですか」
 声の主はサクラであり、アズリは先程のように動揺することなく返事をできたことにホッとする。サクラの頼みというのはちょっとした荷物の運搬だった。教育課の課長であるピリコ=ソーズラッシュの元へ届け物をしてくれというのである。塞舎さいしゃに来て日の浅いアズリが教育課の場所を尋ねるとサクラは心得たとばかりにこう説明した。
「まず事務室を出て右に進んで2つめの階段を2階分上がって左に進んで3つめの階段を1階分降りて右に進んで5つ目の部屋が教育課長室だよ」
「すみませんもう1回お願いします」
 塞舎の建物は古い砦を元に増改築を繰り返して今の形になっているという。だから同じ階層でも高さが異なっていたり、最短距離で目的の部屋へ辿り着くことができなかったりということが多々ある。アズリはサクラに教えられた道順を手近な紙に書き取って、それを頼りに目的地へ向かうことにした。そうはいうものの、この迷宮のような建物を歩くのに小さな紙片1枚を頼りにするというのは心許ないものである。
 さて、サクラから預かった荷物はどうやら書類の束らしい。らしい、というのはそれが大きな封筒に収められていて中身を確かめることができないため、重さや感触から予想したということである。課長であるサクラは事務室にいるとき大抵何かの書類を書いていて、その手の動きは淀みなく速い。書類仕事が苦手なアズリからすればまさに神業である。
「慣れてるから、っていうのはもちろんあるんだろうけど。僕もサクラさんに教えてもらったら少しは仕事が速くなるかな……」
 廊下に人の気配がしないのをいいことにそんなぼやきを口にしながらアズリは紙片を手にしばらく歩いてやっと目的の部屋に辿り着く。『教育課長室』と書かれた札を確認してから扉を叩くとすぐにはいと返事があった。
「環境課のアズリスタル=リーバスです。サクラ課長からピリコ教育課長宛の荷物を預かってきました」
 用件を告げるとするりと扉が開いて、中から小柄な女性が顔を出した。蜂蜜色の肌に夕焼け色の長いおさげ髪が可愛らしく、一見するとまだ少女のように思える。彼女がピリコであるとは考えにくい。アズリが戸惑っていると女性はまずぺこりと頭を下げてから緊張した面持ちで口を開く。
「あの、今おばあちゃ……ピリコ先生は不在で、私が留守番をしているんです。ええと、サクラさんからのお荷物ですね。私から先生に渡します」
「あ、うん。じゃあ、お願いします」
 サクラはピリコに直接渡すことを指示してはいなかった。ならばこの女性に預けても問題ないだろうと気楽に判断し、アズリは封筒を彼女に渡す。女性は封筒の重みに一瞬よろめいたがそれを取り落とすようなことはなかった。
「あ、大丈夫? 結構重いけど」
「だ、大丈夫です。届けてくださってありがとうござ、いました」
 一生懸命に封筒を部屋の奥に運ぶ彼女はアズリへの返事をする間にも一度バランスを崩してつまずきそうになる。これ以上声をかけて気を逸らさせてはよくない気がした。
「失礼しましたー……」
 聞こえるか聞こえないかくらいの声で形だけの挨拶をして、アズリは自分の仕事場へ戻ることにする。背後から転んだり物を落としたりする音は聞こえなかったのできっと荷物は無事にピリコへと届けられることだろう。そう信じる。
「あれ。こっちで合ってた、と思ったんだけど」
 帰りは行きと反対の道順で歩けばいいと単純に考えていたアズリだったが、どうにも環境課事務室のある辺りに辿り着かない。右手に見えた扉に書かれた文字を読んでみると『物品保管庫:防衛課』とある。どうやらとんでもなく見当違いな場所に来てしまったらしい。
「今度は職場の中で迷子……!」
 なんと昨夜に引き続いての失態である。しかも昨夜は暗く見通しのきかない中で暗殺者に追われてというある意味では仕方のない状況だったが、今度は昼日中に比較的平和なはずの塞舎の建物の中での迷子である。自分が決して賢い方でないことを知っているアズリだがこれはさすがに情けない。格好悪い、とその場で頭を抱えたくなる。
 しかし頭を抱えたところで環境課の事務室に帰り着けるわけでもない。とにかくまずは戻ってみようと思い立ち、今来た廊下を引き返す。すると行く手に見覚えのない扉があった。
「どうしよう。こっちに来たときにこんな扉は通ってない。通ってないってことはまた道を間違えたってことで……ああもういいや」
 半ば自棄になって扉を開けてその先の廊下に出てぱたんと扉を閉めながら目の前の景色を見回すが、やはりどうにも見覚えのない場所である。やっぱり違うよな、と呟きながら今くぐり抜けた扉をもう一度通ろうと取っ手に手をかけ、アズリはそこでとうとう青ざめた。
「え、なんで? 開かない!」
 閉まった拍子に鍵がかかってしまったのだろうか。扉は押しても引いてもびくともしない。
「なんで……立て付け悪いよ……!」
 ついに頭を抱えたその途端にかしゃん、と軽い音が聞こえた。続いてしゃりんしゃりんと鈴を鳴らしたように音が続く。アズリが慌てて足元を見れば明るい空色をした不揃いの小さな結晶が床に散らばっていた。うわ、と小声で呟きながらアズリは結晶を拾い集める。何かに集中したりひどく焦ったりしたときアズリはこうして無意識のうちに手近な何かから結晶を作り出してしまうことがよくある。意識せずに魔法が発動するというのはなかなか厄介で、幼い頃は部屋を散らかすなと身内から叱られたものだ。
 空色の結晶をつまみ上げ、アズリは窓の外に見える同じ色の空に目をやる。ちょうど方角がよかったようで、街並みの向こう側にヤイバシラがそびえている様子がよく見えた。
「……やっぱり綺麗だな」
 幼い頃、里で一番高い木の上に登って見た夜空には不思議な赤紫色の輝きが映っていた。あれは何、と尋ねた子どものアズリに里一番の年寄りは「あれは神が人の争いを鎮めるために降ろした剣だ」と答えた。他の大人はそれがヤイバシラと呼ばれる魔法遺物であることを教えてくれたが、アズリは年寄りから聞いた話の方が好きだった。森の奥にあって景色のほとんどが緑の色で占められていた里で育ったアズリにとって、遠くの空で仄かに輝く赤紫色はまさしく神秘そのものだったのだ。もっとも、それを聞いたアズリの母親は彼の髪と目を指して「似たような色をあんたも持っているじゃない」と笑ったものだったが。
 さて、いつまでも思い出に浸って現実逃避をしているわけにはいかない。不思議なもので、ヤイバシラを眺めていると焦りや不安が薄れていくのを感じる。子どもの頃に叱られて泣いていたときも、仲間はずれにされて心細かったときも、木の上から見えるヤイバシラの光がアズリの気持ちをすくい上げてくれた。それは大人になった今でも変わっていない。
 先程より幾分か落ち着いた気分で改めて辺りを見回すと窓の脇にもうひとつ扉があることに気付く。どうやら本棟と別棟とを結ぶ渡り廊下へ出るための扉らしい。外に出て状況が改善するとは思えないがこのまま中をうろうろしていても変わりないのだ。ならば、とアズリは思い切って渡り廊下へと繋がる扉を開けた。

2018/08/13

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