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不可読の病

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前編:P

 箸を持ち上げてふと向かいを見ると、同じように手を止めた友人がこちらを見ていた。デジタル表示の時計は午後6時を表し、私達は今日も早めの夕食をとっている。投げ出した脚の向こう、空虚を隔てた先で友人が食べるためではなく口を開く。
「今日はどう」
 悪くない、と答えようとしてやめた。私の悪い癖だ。いいか悪いか、面白いかつまらないか、判断を渋って曖昧にしてしまうこと。それはこの友人がもっとも嫌うことであるといい加減学習しつつある。
「少し、酸味が強い」
「それは古臭いということ? それとも刺激があるということ」
「浸かりすぎた胡瓜みたいな」
 たとえが年寄り臭い、と友人は笑う。それはとてもいい笑顔で、それを見られただけで私は充分に満腹になる。箸の先に小さな黒い欠片。
「あ、間違い見付けた」
 なになに、と身を乗り出す友人に「ほんのちょっとしたことだよ」と箸先を揺らしてみせる。遠くて見えないだろう、そこには“直”と小さな文字。
「ここは“治”だね。人の身体をなおすんだから」
「分からないよ、もしかしたら工場で修理をするのかも」
「その場合は“直”でいいのかな」
 箸先でぶらぶらと揺れる文字を眺めてふと考える。もしもここが工場であったなら、私達は“直る”のだろうか。それは“治る”よりも簡単で早くて確実なのだろうか。しかしその仮定は私達にとって意味がない。
「早く食べてしまおうか」
 友人が言って、食事を再開する。熱いものが冷めないうちに食べてしまわなければ。飽きてしまえばそこから先を続けることは難しくなる。私も目の前の食事に意識を戻す。

 友人が食事中にわざわざ声をかけてきたのは、きっと昨日のことがあったからなのだろう。私は昨日の夕食を残してしまった。どうしても途中で進めなくなってしまったのだ。苦味と甘味と酸味と辛味がごちゃごちゃと混ざり合った味は私の舌には合わなくて、すっかり苦しくなってしまった。そういうこともある、と配膳係の人は慰めてくれたけれど私はとても落ち込んでいた。

「私はどうしても、分からなかった」
 今日の夕食を終えて一息つきながら私はそう呟く。淡いクリーム色の柔らかい壁に囲われて私の声は天井に跳ね返って消える。昔はもっと何でも食べることができたのだ。それなのに今の私には食べられないものがとても増えてしまった。
「分からないと呑み込めない」
 噛み締めた言葉の意味を、文脈が示す流れを、台詞を発した人物の心情を。苦くて甘くて酸っぱくて辛い、それらの意味をひとつひとつ納得するまで咀嚼してやっと私は呑みこむことができるようになるようだ。幼い頃はもっと簡単に、流し込むようにできていたというのに。
 昨日の夕食のような物語も分からないなりに読みこなしていたはずなのだ。それが大人になってできなくなってしまったのは、一体どういうわけなのだろう。そしてそれができるようになるまで、きっと私はここから出ることができないのだ。
 クリーム色の向こうで人影が揺れる。今いいですか、と声を掛けられてはいと答えた。すると灰色のワンピースを着た女性が入ってくる。
「今夜担当します。よろしくお願いします。何かあったら呼んでください」
「こちらこそよろしくお願いします。あの、少しいいですか?」
「何でしょうか」
 私は灰色のワンピースの女性に昨日の夕食をもう一度試してみたいと頼んでみた。女性は少し考えてから、相談してきますと言って部屋を出ていった。私が溜め息をついていると向こう側から声が聞こえる。
「大丈夫?」
 友人の心配に私は素直に「分からない」と答えた。昨日呑み込めなかったものが今日呑み込めるようになるというのは楽観的すぎる。しかしそれができないという決まりもない。
「あなたは昨日の夕食もちゃんと呑み込めたんだよね」
 私が尋ねると友人はそうだねと返した。クリーム色と空虚を隔てた向こうで少しだけ笑う気配がする。
「でも、私は間違っていたみたい」
「そうなの?」
「今日の検査でね、欠片が喉に引っかかっていたの」
 私達は出された食事をうまく呑み込むことができないという共通点をもってここにいる。だから友人がそう言っても私は驚かなかった。ただ「そっか」と頷いてんんと唸る。
「難しいね」
「そうだね。難しいね、私達には」
「どうして他の人は簡単に呑み込んでしまえるんだろう。気にならないのかな、それが本当なのかとか、この先に何が待っているのかとか、前に感じたことと矛盾したものの意味は何なのかとか」
「ね。私達が食べているのはとても複雑なものなのに」
 私達は共有する。このもどかしさと、他人と分かり合えない苦痛を。やがて灰色のワンピースを着た女性が戻ってきて、再挑戦は明後日にしましょうと告げた。私は大人しくはいと答えた。

 昨日の夕食のようなものを私は以前にも何度も口にしてきた。そしてその度にひどく苦しんで、吐き出して、投げ出して、逃げ出した。私達の身体を作るもの、それは物語。それは現実。それは文字の羅列。それは五感で受け止める全て。呑み込むことのできなかったそれらは時間の流れをせき止める。すると誰かが困って、私達はここに来るしかなくなっていた。
 いつかするりと呑み込める日がくるのだろうか。
 どんなに入り組んだ展開も、予期せぬ出来事も、悪意ある妨害も退屈な幕間も。全部をさらさらと流してしまえるなら、きっと私達の生きていくことのできる場所はもっと増えるのだろう。気にしていてはいけない。味わっていては、味わいすぎていてはいけない。この世は口当たりのいいお話ばかりでできているわけではないのだから。

 その夜、私が眠っていると急に周りが騒がしくなった。デジタル表示の時計は午前2時を表している。足音と物音が私の眠気を覚まして、少なくない人の気配が慌しく私の思考を乱していく。
 私はじっと息を詰めて横たわっていた。周りで何が起きているのか、気付いてはいけないように思った。やがてすっと風が通り抜けたように辺りがとても静かになる。見ると、床にくしゃりと丸まった黒い何かが落ちていた。そっと拾って広げてみればそれは今日の夕食に出た一部で。

“女は言った。答えなんて初めから探していないわ、だからあんたは何もしなくていいの。ただそこにいてあたしの話を聞いていればそれでいいのよ。ああ、でも少しくらい笑って頂戴。そんな澄ました顔ばかりされていたら、なんだかあたしが莫迦みたいじゃない。”

 苦味が少しだけ舌を抉る。そして古漬けの胡瓜のような酸味がぴりりと喉に落ちていった。私はこれを“ああ、わがままだなあ”と感じるだけで呑み込むことができたのだった。だからこれは私の分ではない。私が呑み込むことのできたそれを友人はきっと引っ掛けてしまったのだ。
 何が気にかかったのだろう。何か気にかかったのだろう。静かになった真夜中の部屋、淡いクリーム色をした柔らかい壁に守られて私はただ案じることしかできない。どうか朝になって目が覚めたら伸ばした脚と空虚の向こうに変わらない笑顔のあなたがいますように。
 ただでさえ呑み込めなかった話のせいで居場所を狭められた私達なのに、今度はそれを喉に詰まらせてこの世からも追い出されるのではたまったものではない。分からなくても、呑み込めなくても、理解できなくて間違って詰まらせてしまっても、私達は朝を迎えることくらいできてもいいのではないかと思うのだ。

 昨日食べた話はもう思い出せない。朝になって戻ってきた友人はとても疲れた顔をして、もうあれは食べたくないなと呟いた。そうだね、と頷いて私は灰色のワンピースの女性に連絡をする。再挑戦はなしにします、と。
 出されたものを全部うまく呑み込めるようになれない私達はいつになってもここから出られないけれど、こうして新しい朝を迎えて何かを決めることができるのならそれでもいいかもしれないと思い始めている。

2016/06/17

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