不可読の病
後編:N
「今朝はちゃんと摂ってきたの?」
上司である女性に尋ねられて私は笑顔ではいと答える。彼女はやはり笑顔で私の嘘を見抜いて「こら」と怒った声を出す。でもだって仕方ないんです。140ですら大変なんですよ? それを朝から10倍の、1400だなんて馬鹿げている。
「多すぎませんか、1400なんて」
「貴女には多すぎるのね」
近頃の若い子はそうなのかしらね、と上司は片頬に手を当てて眉根を寄せながら立ち去った。私はあの人が若くないことを知っているけれど、それと朝食の量にどれくらいの関係があるかなんて分かりませんよ。そしてやっぱり1400は多いと思います。
仕事の前準備として昨日の夕方から今朝にかけての記録を確認していく。私が今日担当する部屋の人が昨夜の食事を残したことを知って、それを手元のボードに書き写していく。食事を残したということはそれ以上食べられなかったということで、食べられなかったということは呑み込めなかったものがどこかに引っ掛かっているかもしれないということ。だから朝の挨拶のときに熱を出したりしていないか、ぼうっとして上の空になっていないか、ひどく苦しそうにして涙ぐんだりしていないか、あれやこれやを観察する必要がある。もしもそのまま詰まらせてしまったりしては一大事だ。一大事は、嫌いです。
私がそれにしても気になるのは、どうしてここに長くいる人達はみんなあの大量の食事をたったの30分や40分で平らげてしまえるのだろうかということ。年配の上司に言わせれば今時の、つまり私達くらいの年頃の小食ぶりの方が不思議に思うそうだけれど、それにしたってあの人達に出されている食事は私が朝食べなさいと言われている量の100倍くらいあるのだから妙に感じるなと言われても無理ってものです。本当に可笑しな話。私も、それに多分同期の同僚もあの人達に出される食事を食べようとしたら1ページ目でお腹がいっぱいになってしまってそれ以上を食べようとはしない。
そう。本当はそれが正解なのだ。無理に全部を咀嚼して呑み込もうとすることが間違っている。私達はそれを知っているけれど、ここにいる人達にそれを教えてはいけないことになっているから教えない。自分で気付かないとまるで意味のないことだからと先生方は言って、上司も同じようなことを言っていた。酷い話ですね。そうやって観察と称して傍観している間に私達は一体何人が喉を詰まらせて苦しむところを見なくちゃならないのでしょうか。
お仕着せのワンピースが灰色なのは私達があの人達を苦しめてそれを眺めることを仕事としている証で、私は今日も作った笑顔であの人達の話をよく聞かなくてはならない。たまに聞いてみたくなることがある。そんなにたくさん食べて辛くないんですか? って。
昼間の仕事は大きな問題もなく終わりそうだ。例の昨日の夕食を残した人も今日特に体調を崩したりはしていないので、ひとまず私が急いで何かする必要はない。気になるのは例の人の向かいの人の方で、毎日やっている検査で喉に欠片が引っ掛かっているのが見付かった。大きな欠片ではなかったので大事に至らなかったけれど、あれが例えば500もあれば命にかかわっていたかもしれない。そうならなくて本当によかったです。私の仕事はその人が呑み込めずに引っ掛かっていた、そして先生の手によって喉から取り出された食事の欠片を記録すること。
“ありがとう、と彼女は秋の青空のように清々しい笑顔で告げた。それからひと月の後に彩加から連絡があり、彼女が遠くへ行ったことを聞かされた。やっぱり、という思いとどうして、という思いが交差して奈絵は少しだけ混乱したが、ひとまずは彩加がそれ以上のことを言わなかったという事実に安心したのだった。”
140そこそこの欠片は私の一度の食事量とほとんど同じ。これくらいの分量なら簡単に食べられる。たとえばこの欠片の前後にどういう経緯があっただとか、そんなことはどうだっていい。主人公の思いが複雑であることと、いなくなった彼女とやらにはまだ何かありそうだなというそれくらいのことを読み取ればするりと呑み込めてしまいそうなものだ。そう考えるとやっぱりあんまり一度にたくさんを呑み込もうとするから詰まるのではないかという疑問が湧いてくる。
「詰まらせるくらいなら減らせばいいのに」
私が言葉に出して呟くと、隣で同じように記録作業をしていた同期の同僚が苦笑した。
「減らせない人達だからここにいるんでしょ」
「それもそうか」
私達が普段口にするのはあの人達に出される食事のような形をしていないことも多い。量を自分で選ぶことはなかなかできないし、だから私なんかは勝手に適当な量だけを取り出して呑み込んで後はぽいっと捨てるようにしている。それは別に悪いことでも何でもないし、大体はみんなそうやって要らないものを捨てながら日々を過ごしている。同僚も、年配の上司だってそう。
分からないことは分からないでいい。知らないことは知らないでいい。要らないことは要らないままでいい。流れていく言葉を感情をひとつひとつ律儀に摘み上げたところで何の得にもなりやしない。自分にとってよっぽど大事なことだけを選び取って抜き取って、それ以外ははいはいと言って流してしまえばいいでしょうに。不器用ですね、と私は言葉にしないで呟いた。馬鹿にしているつもりはないけれど、時々憐れに思うことはある。ここに長くいるあの人達の毎日に楽はない。自身が経験したことや私達みたいな他人とのかかわりに加えてあの大量の食事を摂取しなければならないあの人達はどうやったって苦しいに違いないのだ。
苦しみから逃れる方法はただひとつ。
拒絶すること。
受け容れようとしなければいい。気にしなければいい。どうでもいいことだと投げ捨てて見なかったふりで忘れてしまえばいい。そんな簡単なことなのにできないで苦しむのはどういうわけでしょう。
記録を終えたところで次の勤務の人が来たので私は今日担当した部屋の人達の様子を報告し、引き継ぎを済ませる。はい、これで今日の仕事はおしまい。無事に終わってよかったよかった。
同期の同僚が飲みに行こうと誘ってくるのを疲れたからやめておくわと言ってかわし、私は早足でエレベータへ向かう。仕事が終わったらこの場所に長居は無用なのです。ここから出れば後はもう私の時間。私に何の責任もない自由。さあほら早く逃げるに越したことはない。そう思っていたのに、私を後ろから呼び止める声があった。「ちょっと、いいですか。すみません」。
よくないです、と言えるのは残念ながらここを出てからだった。灰色のワンピース姿でここにいる間の私はその呼び掛けを無視してはいけない。時間外なんだけどなあ、と思いながら作った笑みで振り返る。すると私を呼び止めた人は一瞬びくりと身体を震わせて、それでも倒れたりはしないで踏みとどまってくれた。よかった。もし倒れられたらそれこそ私の責任になってしまう。
「あの、聞きたいことがあるんです。ねえ、私はいつここから出られますか」
それはよくある質問だった。あまりにもよくあるから入職時のマニュアルに“よくある質問”として対応の仕方が書かれているくらいによくある質問だった。だから私はその通りに答えた。ええと、気遣うように少し首を傾げて、相手の目を見て、頷きながらまず「そうですね」。
『ここから出るには先生の許可が必要です。検査で何も問題が出なくなって、それから毎日の生活で何に注意すればいいかを覚えて、少しずつ慣らしていってからになります。焦る気持ちもあるかと思いますが、時間がかかることなので急ぎすぎないで、ひとつひとつやっていきましょう』
マニュアル通りの文句はこうだ。けれども私は『そうですね』の後を続けられなかった。間抜けな話だけれど、度忘れしてしまったのだ。私が黙っているのを見て、私を呼び止めたその人はぐっと唇を噛み締めて俯く。気まずい沈黙に私がさて困ったと必死にマニュアルの続きを思い出そうとしていると、思い出す前にその人が小さな声を出した。
「いいんです、ごめんなさい。答えなんて初めから探していません。だからあなたは何も言わなくていいんです。ただ少し私の話を聞いてほしかったんです。でも、少しくらい笑ったりしてくれてもいいじゃないですか。そんな澄ました顔ばかりされていたら、なんだか私が馬鹿みたいじゃないですか」
苦味が舌を抉る。そして古漬けの胡瓜みたいな酸味がぴりりと喉を通っていく。そんなわがままを言われても困る。それに私はその人の話を必要な分は聞いているし、それに添える表情も特に間違ったりはしていない。私に非があるとすればマニュアルの続きを度忘れしたことだけだ。
その人は目からしょっぱい水を落としていた。困った。さあどうする、と考えて私は。
「大変申し訳ありませんが、私には分かりませんので今夜の担当の者に聞いてください」
そうできるだけ申し訳なさそうな顔で声で告げて、早足でエレベータの方へ向かった。振り返ってはいけません。すすり泣く声なんて聞こえません。ボタンを押して、開いた扉の中に入って顔を上げずに閉じるボタンを押せば、ほら。
逃げ切った。
後のことは知らない。
ただ何か硬くてどろりとしていて重みのある苦いものが酸味をまとわりつかせながら私の喉に張り付いているのを感じた。慣れないものを食べたからだろうか。これはよくない。ちゃんと取捨選択をして要らないものは早く忘れてそして、ああ。
ああ。
今夜は140字さえも読めそうにない。私の食べられる量がまた、減っていく。
2016/06/17