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花と綺羅玻璃:第1部 結晶遣いと砦の都

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第7話 切先の蕾 1

 とてもとても強い力だった。自分の手を掴んだ少女の指に込められたそれを思い出してアズリは困惑に顔を曇らせる。掴まれた手から伝わる熱が場違いに心地良かったためにアズリは何も言えずただされるがまま。彼女の口元は柔らかく微笑んでいたが、その目はひとつも笑っていなかった。初めて出会ったときから印象的なクリソプレーズの緑色をした目だ。
 ちょうどよかった。そう言ってアズリの手を掴んだシェリロは続けてこう言った。今日はどれだけ遅くなってもいいから剣塾に来てください。絶対に来てください、と。もしアズリが行かなければ探し出して斬るとでもいうかのような調子だった。どういうことだろう、とアズリはもうじき終業時刻となる事務室で手強い書類と向き合いながら考え込む。当然書類仕事は一向に進まず、疑問の答えも得られないまま時間だけが過ぎていく。
「どうしたんだい、アズリスタルさん。集中できていないようだが、まさか二日酔いじゃないだろうね」
 通りがかったサクラが少しだけからかうような口調で言って、アズリは慌てて否定する。
「違います違います。昨日そんなに飲んでないですし」
「冗談だよ。でもやっぱり昨日の歓迎会のせいで疲れているんじゃないか? よかったらお茶を淹れるから休憩しよう」
「ええっ」
 何故上司にお茶を淹れてもらって休憩しなければならないのだろう。そもそもサクラにはアズリにお茶を振る舞っているような時間的な余裕があるのだろうか。しかしこの場合アズリにサクラからの申し出を断る権利はない。腑に落ちない気持ちのままサクラに連れられて事務室を出ると、ちょうどそこへ何か黒くてぽよんとした丸い塊が転がるようにして飛び込んできた。そしてそれはその勢いのままアズリに激突する。
「う、わあ!?」
 何か覚えのある感触だなと思いつつアズリは受け止めた塊をよく観察してみる。するとそれは案の定、剣塾の生徒のひとりであるエリークスだった。黒っぽい褐色の肌に黒髪、服も黒っぽいものを着ていることの多い小柄なエリークスは一見するとまるで影法師のように思えることがある。ぽよぽよとアズリにしがみついているエリークスを無理に引きはがすこともできないアズリは視線を遠くに向けながら差し当たって言わなくてはならないことを言う。
「エリークス……廊下を走ると危ないよ」
「すみませんー。でもアズリ先生ならあ、受け止めてくれると思ってましたー」
「……僕だって分かっててぶつかったの?」
 思わず視線を向けたアズリに対してエリークスは大きな朱色の瞳をきらきらさせながら「えへへ」と笑った。そのような目をされては怒る気力も失せてしまう。そんな様子を立ったまま見ていたサクラが軽く溜め息をついた。それから彼は思い出したように笑みを浮かべながら言う。
「その様子だと生徒からの信頼は厚いようだね、アズリスタル先生」
「サクラさんまで」
「考えてみたらそろそろ終わりの時間だったな。今日も剣塾があるんだろう? だったらそっちに行ってくれ。僕よりも生徒たちの方が君を必要としているだろうからね」
 そう言いながらサクラはするりと身をかわしてエリークスの横を通り過ぎていく。どこか不機嫌そうにも見えるその仕草にアズリは少しだけ気まずいものを感じながら改めてエリークスに話しかけた。
「ところでどうしてここに?」
「えーとぉ、アズリ先生に会いたくて」
「そ」
 そんなまさか、と言いかけてアズリは自分が軽く赤面していることに気付く。目の前のエリークスはにこにこと嬉しそうに笑っていて、たとえお世辞でも会いたくて来たと言われてしまえば照れるより他ない。あーあ、とアズリは敗北感もあらわに溜め息をつく。
「かなわないなあ」
「光栄ですー」
「どういう光栄……? ええと、じゃあ今仕事の方を片付けてくるから。そうしたら剣塾に行くよ」
「はい。ぼくは先に行っていますからあ、ちゃんとお仕事終わらせてから来てくださいー」
「ちゃんと終わらせ……うんまあ頑張るよ」
 山とまではいかないもののそろそろ小高い丘程度の高さになりつつある未処理書類の様子を思い出しつつ、アズリはぽんと柔らかくエリークスの頭を撫でる。エリークスはとても満足した様子で足取りも軽く廊下の向こうへと消えていった。仕事が綺麗に片付くまで居残っていてはいつまで経っても剣塾へは行けそうにない。そう考えたときに脳裏に浮かんだのはエリークスの残念がる様子ではなかった。
「……シェリロ」
 どれだけ遅くなってもいいから来てくれ、と彼女は言った。事務室に戻って積み上げられた書類の束を見る。時刻はもうアズリに業務を終えることを許している。結局アズリは席に着くことなく軽い荷物を手に事務室を後にした。

 薄暗がり、まだ来ていないはずの夜がわだかまったような道場に白い髪の少女が佇んでいる。彼女は右手に抜き身の剣を提げており、入り口に背を向けていた。先に行っていると言っていたエリークスの姿はない。暗すぎないの、とアズリは入り口脇の壁に設けられた照明のスイッチへと手を伸ばす。
「暗いままでいいですよ。構えてください」
「いや何を」
 そもそもアズリは普段から武器を持ち歩くことはしていない。まず得物と呼べるような武器を持っていない。外勤のときには警棒を持つが、それは塞舎からの貸し出し品である。アズリの身の安全に関してやたらと口うるさいオゥヴァも武器の携行を勧めることはしなかった。曰く、「まあお前がその気になったら武器なんてない方がいいだろうけど」とのことだ。
「丸腰だよ、僕は」
「エルダーだから?」
「いや、魔法は下手で」
「じゃあまさか、戦わないで済むとでも思っているんですか」
 振り向いたシェリロの目が入り口から射し込む夕刻の光を映してきらめく。ああ、綺麗だな。アズリは束の間見とれ、しかしその輝きはすぐに別のものに取って代わられた。シェリロがかざした、彼女の剣に。
 シェリロの剣は少し変わっていて、特別に注文して作らせた品なのだろうとアズリは考えていた。普通、街の店で売られている剣の刃は銅や鉄などの金属で作られている。金属は加工がしやすく、切れ味が落ちても研げばまた切れるようになり、全体的に使い勝手がいいのだ。しかし中には金属でない素材を使った剣を好む者もいる。それは石。しかも金属に劣らない剛さと硬さを持ちながら人の手で加工することもできるという相当に特殊な石だ。シェリロの剣はまさにそれだった。
 ほとんど透明の水晶のような見た目の刃が薄闇の中でちかり、ちかりと淡い光を反射する。原石から削り出したというよりは巨大な結晶を打ち欠いて刃にしたという様子のそれは一見すると祭事に使う装飾品のようで、金色の花を模した鍔も相まってとてもではないが強そうには見えない。斬るというより殴るような戦い方をするのかと思いきや。
「ふっ」
 呼気と共にぴりりとした剣風がアズリの頬をかすめる。嫌な感触がした。つう、と首に伝い落ちるものは汗ではないに違いない。初手から顔を狙ってくるとは。
「……怖いよ、シェリロ」
 ひくり、と自然と口元が歪むのを感じながらアズリは言う。一方シェリロは冴えた眼差しでアズリを見つめたまま口を開く。
「見切っていたでしょう」
「もしかして目を抉るつもりだった?」
「やっぱり。余裕があるんですね、随分」
「いきなり急所を突かれる覚えはないんだけど」
 少しばかり恨みがましい声音になってしまったことは致し方ないだろう。シェリロは一体どういうつもりでアズリに剣を向けているのだろうか。遠回しに問いかけたつもりだったが返る答えは剣ばかりだ。
 石造りの剣は金属製のそれよりも品質のばらつきが大きい。金属は精錬の過程を経て刃に加工されるが、石は削り出したそのままのものを用いるからだ。アズリはきらめく剣の軌跡を横目で追いながら道場の床を蹴った。

2019/01/05

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