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花と綺羅玻璃:第1部 結晶遣いと砦の都

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第7話 切先の蕾 2

 薄暗がりで追いかけっこが続く。障害物のない道場はアズリにとってやや不利だ。シェリロは息ひとつ乱すことなくきらきらした目でアズリを睨み、問いかける。
「先生。暗殺者が相手を殺せなかったときってどうなると思いますか?」
「暗殺者」
「はい」
 シェリロも知っているのだろうか、昨夜アズリが暗殺者に襲われたことを。会ったこともないあのセインという騎士が知っていたのだから、アズリと交流のあるシェリロが知っていてもおかしくはない。それはおかしくないのだが、果たして今の質問はどういう意味だろうか。
「どうなるって」
「仕事を失敗したときの処置です」
「し、始末書……とか?」
「書類に残してどうするんですか、暗殺なのに」
「それもそうだね……」
 ついつい自分の仕事で想像してしまったが、暗殺とは基本的には正面から堂々と決闘を挑んで相手を殺すわけもなくあくまで秘密裏に、誰が手を下したか、誰がその指示を出したか分からないようにこっそりと殺すものである。それを失敗したからといって「失敗しました。理由はこれこれで、改善策としてこれこれを考えました」と呑気に始末書を作るわけがない。かといって失敗を咎められないというわけでもないのだろう。ならば。
「じゃあ、減給?」
「お抱えならそれもありえますね。そもそも出来高払いが多いと思いますけど」
「お抱え?」
「この街で暗殺稼業をやっている人たちは大体三つに分けられます。まずはお金のある人のお抱え。商売敵や個人的に知られたくない秘密を知ってしまった人、関係のこじれた愛人なんかを始末するために雇っているものです。それから、依頼内容と報酬が見合えば誰からの仕事でも請け負う自由営業の暗殺者。そして兼業暗殺者です」
「兼業」
 なんだか暗殺者がごく普通の職業のように感じられる説明にアズリは思わず呆れ顔をする。するとすかさずシェリロは鋭い突きを繰り出してきた。アズリは間一髪でかわしてシェリロに聞き返す。
「兼業って、他の仕事をしていて暗殺も請け負うってこと?」
「そうなりますね。他の仕事だったり、身分だったり」
「へえ……」
 塞都さいとの暗殺者について新しい知識を得ることができたものの、気の利いた感想も浮かばないアズリである。どうしてシェリロはこのような話をアズリに聞かせるのだろうか。考えても分かりそうにないので直接ぶつけてみることにする。
「シェリロ、君はなんで僕にそんなことを教えてくれるの」
「まだ知らないかと思って。知らないなら知っていてほしいと思って」
「僕を殺し損ねた暗殺者がどうなるか」
 改めて口に出してみるとひどく喉が渇いた。唇を舌で湿して、それをできればシェリロには見られたくないと思う。
「あの、さ。シェリロ……それ、どこで聞いたの?」
「それ、とは?」
「だから、僕が昨日の夜暗殺者に襲われた話」
 質問しながらアズリは違和感を覚える。暗殺はこっそりと行われるものだ。死体が見付かれば騒ぎになるだろうが、殺し損ねたならそれを知っているのは本来当事者だけだろう。アズリが話した相手はオゥヴァだけだ。
 アズリの質問にシェリロは答えず、代わりに斬撃。斜め上段からの速度のある刃を咄嗟にかわしながらアズリはシェリロの目から視線を外さない。続けざまに放たれる攻撃をどう受け流すべきか考え、最後にはいつものように結晶の盾を作り出して防いだ。しかしシェリロはそれを読んでいたらしく、ぐるりと回り込んでアズリの目の前に迫る。クリソプレーズの美しい瞳。アズリは息を呑んだ。
「あ」
「どこで聞いたと思います? どうして知っていると思います?」
 シェリロの口元は笑みの形を作っている。しかしその目は笑っていない。そしてその刃はぴたりとアズリの喉元で止まっている。
「考えてください。あなたが特別に殺されなくてはならない理由があるんです。そしてそれはあなたにとって受け入れることのできるものではないはずです。じゃあどうすればいいと思いますか。考えてください。そうやって逃げてばかりいるつもりなら」
 つい、とアズリの喉元で切っ先が滑る。予想していたより随分と鋭いそれは少しも引っかかることなくアズリの首の皮だけを薄く裂いた。痛みはない。ただ冷たく、異物が体内に食い込もうとしている気味の悪い感触があるばかりだ。喉を動かすと刃が刺さりそうで、アズリはただじっとシェリロの目を見つめて彼女の言葉の続きを待つ。
「逃げてばかりいるつもりなら、ここで私が殺します」
「君に殺されたくはないよ」
 いくら僕でも。そう付け加えながらアズリはそうっと後ろに下がる。シェリロは追わず、ただ薄く血のついた切っ先をアズリに向けたまま立っていた。透明な刃の先に赤が光る。花でも咲いているみたいだ、とアズリの頭の奥の方が呑気なことを考える。その様子を見てか、シェリロが少しからかうような声で問い掛けてくる。
「お疲れですか、先生。昨日はもうちょっと強かったんでしょう? 生きているんですから」
「僕は相手を打ち負かしたわけじゃないし、決着がつきそうになかったから向こうが引いたんだと思うけ……」
 ど。言葉を途切れさせたアズリははっと改めてシェリロを見た。同時につい先程仕事を終える前にサクラからかけられた言葉を思い出す。
 『まさか二日酔いじゃないだろうね』『歓迎会のせいで疲れているんじゃないか?』
 一瞬、眩暈がした。そうだ、何故気付かなかったのだろう。
 シェリロもセインも知っていた、アズリへの襲撃。それを上司であるサクラが知らないなどということがあるだろうか。もし知っていて敢えて触れなかったのならその理由は何だろう。思考がぐるぐると回る。
「オゥヴァにも言われたっけ。大事なことはちゃんと考えておいた方がいい……って」
 そうしなければこの街にはいられないのか。
「分かったよシェリロ、考える。だからまずは君に聞きたい」
 シェリロが不審そうに目を細める。彼女が剣を止めたので、アズリは一度軽く息を吐いてから彼女に尋ねる。
「これは、僕が死ねば済む話?」
「まだ分かりません。ただ私は、そうではないと思っています」
「じゃあ、君はどうして僕を殺そうとするんだろう。僕を殺したいのは君じゃない?」
「今は殺そうと思っています、まだ」
「君が僕を殺す理由は、僕が自分の狙われる理由を考えることもせずに逃げようとしているから。それで合っている?」
「まったくもってその通りです」
 シェリロの目と刃とが剣呑に光る。睨まれていてなおその目を綺麗だと思ってしまう自分に内心呆れつつ、アズリは「そう」と誤魔化すように頷いた。
「僕は逃げ足なら自信があるよ。里にいたときからそうだった」
 力で敵わなくとも森の中に逃げ込んでしまえばよかった。アズリはいつも森にいた。魔法が下手で身体も大きくなくさらに弁の立つ方でもなかった少年のアズリは同年代の子どもたちの輪に入ることができなかった。森の中はアズリにとって心地良い居場所だった。そしてそこでアズリは遠い空に『ヤイバシラ』の光を見付けた。
「……塞都に来たのは、逃げるためじゃない。ヤイバシラをもっと近くで見たかったから」
 独り言のようなアズリの言葉をシェリロは剣の切っ先をアズリに向けたままの姿勢で聞いている。逃げてばかりいるなら殺す、と言った彼女に何を答えればその剣を収めてくれるのだろう。何が彼女の心に適うのだろう。
「『仮面屋』に関わりがある割に、アズリ先生は随分優しいですよね」
 突然シェリロが少し呆れた様子でそんなことを言った。アズリはぎょっとして問い返す。
「ちょっと待って。シェリロ、どうして君がオゥヴァのことを知ってるの。僕は話したことないよね?」
「『仮面屋』の名前までは知りません。ただいつも先生を守っている『仮面屋』のネズミがいるので」
「『仮面屋』の、ネズミ?」
 確かにオゥヴァはアズリに見張り、あるいは護衛をつけている。ネズミというのはそれのことだろう。それはおおよそ見当がついたが、シェリロの言い方が引っかかった。シェリロがアズリに対する尾行、あるいは物陰からの警護のようなものに気付いていること自体はそう不思議ではない。彼女のように高い戦闘能力を持ち、常に帯剣して危機に備えているのであれば不穏な気配に敏感になることもあるだろう。アズリのようにのほほんと歩いていてひったくりに遭うような田舎者とは違う。だから気になったのはそれではなく別のことだ。
 シェリロの口調はあまりに普通だった。普段から正直な感情を表に出す方ではないにしろ、ものを知らなすぎるアズリに対する憤りはあるだろう。実際こちらに剣を向けてきた彼女の声音は硬かった。しかし今はむしろいつも剣塾での鍛錬の合間におしゃべりをするときのような、微笑みながら現実的すぎることを話すときのような声で『仮面屋』のネズミという単語を口にしたのだ。
「あの、シェリロ、もしかして君はその」
 アズリが言いかけたちょうどそのときだった。部屋が微かに揺れた直後、どおん、と雷のような音が鳴る。シェリロは一瞬虚をつかれたように動きを止め、アズリはその場の空気に不穏な気配を感じ取った。いや、確かに今辺りの魔力に乱れが生じたのだ。エルダーでなくとも分かるほどの変化だった。
「シェリロ、ごめん、ちょっと灯りをつけて!」
 こう薄暗くては何が起きたか把握するのも難しい。そう思って叫んだアズリだったが、シェリロは戸惑った様子で立ち尽くしている。少しの間の後、彼女は小さく「あ」と声を出した。
「私、外を見てきます」
「えっ」
 言うなり彼女は扉から外へ出ていってしまう。すぐ横に部屋の照明をつけるためのスイッチがあるというのにそれに触れようともしなかった。仕方なくアズリは駆け寄ってスイッチに触れる。照明はつかない。
「リクィルが停まってる。今の音は……」
 呟きながらシェリロを追って外に出ると、彼女は道場のある別棟と塞舎さいしゃ本棟を繋ぐ開放式の渡り廊下からじっとヤイバシラのある方角を見つめていた。青紫色に暮れた空に赤みを帯びた光を投げかけるヤイバシラにいつもと変わった様子はない。アズリはそこで一度ほっとしながらシェリロに声をかけた。
「シェリロ。ごめん、僕は街の様子を見てくるよ。塞舎のリクィルラインが停まっているみたいなんだ。ヤイバシラからの供給パイプラインのどこかに破損があるかもしれない」
「先生」
 これでもアズリは環境課の役人。街の設備の維持管理が仕事である。就業時間が終わっているとはいえ緊急事態には対処しなければならない。それにもしも本当に街の中のリクィルパイプラインに損傷があるとすれば大変なことだ。ヤイバシラが崩壊しそうになったときにもっとも心配されたのが多量のリクィルの流出である。リクィルはそれ自体が高純度の液体魔力であり、触れただけで爆発するような不安定な高エネルギー体なのだ。それゆえ、街に張り巡らされたリクィル輸送用パイプラインは非常に頑丈な特殊素材で作られているらしい。そしてパイプラインのどこかに損傷が生じてリクィルが漏れ出すようなことがあれば、その量を最小限に抑えるため安全弁が作動して全体のリクィルの流れを遮断するように設計されているという。だからもしどこかでパイプラインの破損があったとしても街全体に大量のリクィルが流れ出すような惨事には至らない。しかしできるだけ早く損傷個所を発見して修理しなくては街のリクィル輸送網は停まったままになる。そうなれば照明もかまども使えない。人々の生活が脅かされてしまう。
「ええと、音のした方角は……」
「先生、ミキト区の方です」
 そう言いながらアズリの隣に立ったシェリロの足元でかしゃんと軽やかな音がした。見ればいつの間にかアズリの立っている辺りに小さな結晶の欠片が散らばっていて、届くヤイバシラの光を受けてちかちかと光っている。
「あー……またやっちゃった……」
「行きましょう」
 抜身の剣を携えたまま、シェリロがアズリの手を引いた。え、と顔を上げたアズリの視線の先でシェリロの白い髪、その紅く染められた毛先がふわりと踊る。
「逃がしませんから」
 一瞬だけ振り返ったシェリロが言う。その口元が小さく微笑んだのをアズリは見逃さなかった。できれば気付かずにいたかったとも思った。

2019/01/05

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